学術研究助成紀要 第4号
DNP文化振興財団では、グラフィックデザイン、グラフィックアート文化の発展と学術研究の振興を目的として、幅広い学問領域からグラフィックデザイン、グラフィックアートに関する研究助成を実施しています。
本書は2021年末までの採択研究の成果を編纂したものです。
要旨
注:著者の所属と職位は、紀要刊行時点のものです。
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「オリジナル木版画」と水性木版
─ヴァルター・クレムとカール・ティーマンの試みを中心に本研究では20世紀初頭のドイツ語圏の木版画の展開の中で、ジャポニスムの文脈で語られるヴァルター・クレムとカール・ティーマンの多色木版画について調査した。これまで彼ら世代の版画の仕事は、先行するエミール・オルリクが実際に日本に来てその技法を学んだことによる展開と位置付けられ、あまり重視されてこなかった。もちろんオルリクのもたらした直接の情報が大きな影響源となり得たことは確かだが、その後オルリクは木版画から距離を置き、また続くクレムやティーマンらの仕事はオルリクの目指した日本式の木版術とも一線を画している。この違いについて検討するために、当時広がった「オリジナル木版画」の概念の高まりを背景として考える。それは原画を複製するためではなく、一から版画を制作するという意志に基づいてサインと共に作品に記されるキーワードとなり、当時の版画に対する理解の変化を示す。
その要因となったのが、水性絵具を用いた手摺木版であり、手仕事ならではの「ゆれ」がクレム、ティーマンらに自由な実験を促したのである。この事実は、彼らの作品を日本美術からのイメージの転用例として、ジャポニスムの文脈にとどめるものではないだろう。長らく複製の位置付けにあった版画が復権する時代として、また近代的な意味における「表現」としての立場を獲得していくところに近代版画の転換点を見出し、1900年代の版画家たちの仕事を評価すべきだと考える。 -
日本写真における雑誌からオリジナル・プリントへのメディア変遷
─ギャラリスト・石原悦郎と書簡のアーカイビングを通じて写真は印刷技術の発展と共にあり、雑誌を中心とした印刷物として流通してきた歴史がある。国内では1960 – 70年代にかけてカメラ雑誌の隆盛期が訪れ、多くの職業写真家が誕生した。その後、写真が美術館やギャラリーをはじめとする空間で発表されるようになると、「オリジナル・プリント」による展示が一般化した。
一方で、写真史の多くは「表現」という視点のもと写真家と作品紹介を中心に描き出されてきたが、そのとき、写真はイメージ(写された像)のみに還元されてしまう。しかし、写真がその支持体であるメディアに大きく依存するものである以上、「表現」もまたそれに応じた変化を伴ってきたはずだ。さらに、雑誌と美術館とでは写真の受容自体も大きく異なる。こうした社会的受容の変化は写真家の意識にも作用してきたに違いない。従って、写真の「メディア変遷」という側面に着目し、写真史を立体的に捉え返すことが求められる。本稿は、発表の場が、印刷物から展示空間へと移り変わる転換期を捉えるため、国内最初の写真画廊であるツァイト・フォト・サロンを創設した石原悦郎(1941 –2016)の動向に着目し、石原が遺した写真家、関係者からの書簡のアーカイビングを通じて、「オリジナル・プリント」という概念がいかにして定着を見せたのか、その一端を調査したものである。 -
画面デザインの保護のあり方
─意匠法による保護拡張は必要か我が国で、画像デザインの保護のために意匠法を拡張する必要はあるのか。本研究課題を申請した時点では2019年の意匠法改正は予期されていなかったが、それでもいまだ我が国では意匠権による保護を画像デザインが受けるためには、操作画像においても表示画像においても機器の機能との関係が問われている。欧州およびフランスでは機器との関係は問われず意匠登録が認められているが、意匠権に基づく実際の権利行使の事例は見当たらない。そうであるとすると、特に機器との関係がない画像にまで意匠権の保護を及ぼしたところで実際にどの程度保護ニーズがあるのか不明であるし、著作権法との関係を考慮しても応用美術という視点では無用な議論を引き起こす可能性があろう。むしろコンテンツ画像にまで意匠権を及ぼすということとなれば、ゲームなどの画像にも広く意匠権が及ぶこととなり、逆に我が国のゲーム産業に悪影響を与えかねない。以上のように考えると、画像デザインの保護としての意匠法による保護拡張は望まれないと考えるべきであろう。
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戦後復興期の写植産業史
─写研とモリサワの決裂をめぐって本稿は、邦文写真植字機(写植)とブックデザインの関係を主題にしたメディア論的な歴史研究の、成果の一端を紹介するものである。具体的には戦後復興期の写植産業の展開、特に日本を代表する写植機製造販売企業であった写研とモリサワが、1940–50年代に密接な協力関係を経て決裂した経緯についての、調査と考察を報告する。当事者の大半がすでに存命でなく、文献においても書き手の立場によって記述に食い違いの多いこの出来事について、可能な限り複数の典拠を照らし合わせ、客観的な状況の推定を行った。
その結果として浮かび上がったのは、独創的な技術を共同開発した二人の天才的発明家の対立というシンプルな構図を超えた、複数のマクロな力学:高度専門技術のコモディティ化と集団化、占領下での戦後処理政策と朝鮮特需、東京一極集中する出版文化と高度経済成長、日本社会におけるジェンダーギャップ、家族経営企業の世代交代と理念の継承および変質、などが影響しあい織りなす、複雑な文脈である。
必然と偶然が絡み合って日本で特異な発展を遂げた、写植という印字装置に光を当てることを通じて、日本語書き言葉とグラフィックデザインの発展の歴史に、新たな角度からの解釈を試みた。 -
西欧初期中世彩飾法典写本の研究
─法文化と宗教図像の交錯初期中世のゲルマン系諸国家では、諸部族の法習慣を成文化した法の書が編纂され、法典写本が制作された。このうち挿絵を含む写本は彩飾の稚拙さ故に、挿絵入り法典写本は法制史研究の分野に比して美術史学では等閑視されてきた。本稿ではフランク人らのための2種の法典を収録する彩飾写本を取り上げ、その図像や装飾が法の書物において果たした役割を考察する。
法典写本では、立法者や法律家が描かれる他、イニシアルや枠取り装飾があしらわれる。9世紀のガリアの作例であるパリlat. 4404本では、各法典冒頭の目次に柱廊装飾が施される。この装飾形式は古代末期以来の書物の序文ページや福音書の共観表と共通する。10世紀の北イタリアの作例であるモデナCod. O.I.2本では、立法者像を見上げる書記家が側面観で描かれる。この構図は詩編写本等の扉絵に描かれた著者像の構図に範を得たものだろう。9世紀末のフランスの作例であるパリlat. 4787本の挿絵は、「デナリウス投げ」という奴隷解放行為についての法典の条文を描いたと想定される。人物像の持物や身振りをたどると、この図像は、キリスト教美術の図像伝統から位階的表現が、法の条文を説明する図像に転用されて成立したと推測できる。西欧初期中世の法典写本には、同時代のキリスト教写本と共通する彩飾が認められる。宗教的図像伝統をすることで、法典写本に立法者と法そのものの権威を示しているのである。 -
グラフィック文化としての小型映画ライブラリー
─サクラグラフを例にちょうど100年前、パテ社(仏)とイーストマン・コダック社(米)が立て続けに9.5mmと16mmの不燃性フィルムを用いる家庭映画システムを商品化し、ほとんどタイムラグなく日本の都市部でも小型映画ブームを引き起こした。プロレタリア映画運動や教育映画運動、そして雑誌刊行やコンクール開催を国際的に展開するシネアマチュアの趣味活動と、戦間期の小型映画の受容が、メーカーが想定していた中流家庭による消費の域を超えた多様なメディア実践であったことは国内外の研究でよく知られている。他方で、小型映画機器の販売促進を兼ねて展開された縮写版ライブラリーに関する研究は比較的少ない。本稿では、縮写版ライブラリーが文字通り映画の圧縮(短編化、狭軌化)を伴うものであり、人間の眼がなめらかな動きとして知覚できる最低限のラインまで映写スピードや画質を下げる点で産業横断的な近代のイデオロギーである合理化のロジックを体現したものであるとする最近の研究動向を受けて、国内での縮写版制作の草分けであったサクラグラフについて検討する。具体的には、サクラグラフを展開した写真機器商社の小西六と制作会社の横浜シネマがそれぞれの社史で自明視するテクノロジー決定主義的な物語が捨象する、カタログ化、ストックイメージ化、グラフィック化といったソフト面でのテクニックが果たした役割を写真やポスターあるいはタイポグラフィなど同時代のグラフィック文化をめぐる研究を参照しながら明らかにする。
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マイノリティ文化の越境とそのグラフィックデザインの資源化
─日本における中国ナシ族のトンパ文字に関する研究報告2000年代初頭、日本において、トンパ(東巴)文字がポスターや既製品等の日常的なもののデザインに用いられ、「トンパ文字ブーム」とも呼ばれた現象があった。本稿は、中国ナシ(納西)族によるトンパ文字が日本へ渡ってきた経緯、その展開についての角度から遡及することを試みた研究報告である。
1990年代後半、中国の麗江はグローバルな観光名所となり、麗江ナシ族のトンパ文字も地域シンボル、文化の象徴として取り上げられた。その後、トンパ文字経典が世界記憶遺産に認定されたことで、観光資源として大きく変容することとなった。同時期に、日本人観光客、研究者、デザイナーがそれぞれの関心で、麗江を訪れていた。また、日本のメディアも大衆向けにトンパ文字を紹介し、トンパ文字のグラフィックデザイン作品も街に出現した。それらの活動が、若者の間の「トンパ文字ブーム」の形成に一役買ってきたと考えられる。1990年代から2000年代前半にかけて生じたトンパ文字の日本への越境は、グローバル観光の拡大という時代背景において、「愛嬌のある」といわれる象形文字が、人の心を動かす力をもつデザインとして、国際的に生かされた事例の一つと言える。言い換えれば、トンパ文字は、少数民族地域の文化遺産がデザイン資源として利用され、国際的文化の伝達と生成の役割を果たしてきたと言うこともできるだろう。 -
「ザ・ファミリー・オブ・マン」日本巡回展(1956–57)の展示デザインに関する研究
本研究は「ファミリー・オブ・マン」日本巡回展(1956–57)における展示デザインの手法を明らかにすることを目的とする。資料として、髙島屋史料館の写真アルバムをはじめとする各施設の保有する会場写真と図面を用いた。まず、東京展の会場である髙島屋東京店8階新展示室の機能を確かめた。展示室が広い展示面積を有していたことが会場選定の決定要因になったことを指摘した。次に東京展において展示された写真の位置を明らかにした。また作品のレイアウトについて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)における展覧会のカタログとの比較を行った。新規の発見事項として、日本巡回展に際して新規追加された国内写真家による写真作品の配置場所の一部を明らかにすることができた。続いて丹下健三研究室設計の展示什器に着目し、そのデザインが鑑賞者にもたらした視覚効果を整理した。さらに、他の日本巡回展における展示什器の使用のされ方を把握した。大阪展では、会場入口の地点からの視軸を強調している点で東京展と異なる視覚効果が意図されていた。最後に、韓国巡回展においても日本巡回展と同一の什器が活用された可能性があることを指摘した。
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生成・消滅・再生する切り紙のかたち
─新年を寿ぐ日本の伝承切り紙と中国の剪紙の事例から本助成研究では、「生成・消滅・再生する切り紙のかたち─日本と世界の比較文化研究」と題し、日本と中国において、新たな年を祝い、安寧や豊作を祈願して製作される伝承切り紙を対象に、紙に刃物で図像を切り出す技術で生み出される「かたち」の文化の事例研究に取り組んだ。
本稿では、第1章「はじめに」に続き、第2章で日本の6地域(山形県米沢市、新潟県の長岡市・魚沼市、和歌山県の高野山、宮城県の三陸沿岸部、浜松市天竜区・埼玉県秩父市)で実施した、正月飾りの伝承切り紙および関連工芸品の調査で得られた概要を報告する。日本での調査では多くの地域において、制作者が寺社の聖職者から民間へと移行したり、それと共に図案の相互流用や変化する時代の要請に応じた変化、アレンジ等が生じたことが分かった。
第3章では、中国の陝北(陝西省北部)地域の現地調査に基づき、「窓花」と呼ばれる剪紙(切り紙細工)の使われ方から、使い捨てであるからこそ年ごとにそのかたちが伝承されていくあり方を、第4章では、中国剪紙に特徴的な言葉の音と切り紙のかたちが響き合い、重層的なイメージを伝える「かたちの言葉」としての切り紙の役割について論じる。
最終章では日中両国で調査した切り紙の特徴から得られた考察を簡単にまとめた上で、今後の国内外の伝承切り紙の調査研究にも応用可能な研究視角を提起する。 -
微生物によるグラフィックス
─視覚文化の新たなる地平本研究は、視覚文化領域における生物学と造形表現の関係性について、微生物によるグラフィックスの分析を通して、拡張する視覚文化研究の端緒を開くものである。従来の近現代美術史・デザイン史研究を基盤に、造形美術、デザインといった視覚文化の中に現れてきたバイオメディアについての変遷を示すことから始め、個別具体的な事例として微生物によるグラフィックス表現の4作品(シリーズ)について記述する。そして、そこに見られる共通項を分析し、視覚文化研究における新たな領域について考察を加える。
微生物によるグラフィックスとしては、バクテリア、菌類、藻類など生物分類における界および種の違いを有するものの、培地の必要性、動的なパターンの生成といった共通する点が認められる。特に本論では、「図と地」の問題や「マイクロパフォーマティヴィティ(microperformativity)」の観点より、今日的な動的要素と視覚表現のあり方について一考を加え、バイオメディア(生きている媒体)による造形についての分析を通して生物学と芸術学の一つの交差点を示すことを目指す。 -
古代エジプトのグラフィック・アートにおける立体物の表現について
本稿では、古代エジプト文明のグラフィック・アートにおける立体物の表現の特質に焦点を当て、人体像と建築物の画法について分析を行った。古代エジプトでは、人体像の画法において、紀元前2400年代に既に雛形を用いた画法が確立され、高い生産力をして当時の建設ラッシュに伴う美術製作の需要に応えた。中王国時代には、グリッド法が開発され、それが標準画法として1300年の間、有効性を保ってきた。しかし、末期王朝時代初期に突如として、グリッドとアントロポメトリーの理論を融合させ、新たなグリッド法を開発するに至った。一方、建築表現においては、立面図および縮尺設定を必要としない平面図の作成が主流であった。新王国時代から、木製家具の立面図が発見されており、さらに末期王朝時代以降には、グリッド上に木製祠堂の立面図を描いた「グラーブ祠堂パピルス」などが製作されるようになった。このように、末期王朝時代のグリッド法の変革と建築表現に現れてくる立面図は、紀元前2400年代ごろから始まるエジプトのデザイン技法が、ギリシアのカノーンとシュムメトリアへと継承されていく上で、重要な一歩であったと考えられる。
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慣用色名認識の現状把握とカラーシステムへの対応
─第1報:「確信度」を導入した色選択法による慣用色名認識の定量化の試みJIS Z 8102「物体色の色名」に採録されている慣用色名が、どの程度正しく認識されているかを現状把握してカラーシステムに当てはめるための導入として、著者の従来研究(2009)における「色名の知名度」「色名からのイメージ可能度」および「色選択における基準からの色差」の3指標に、新たに「確信度」を加えて相互の関係を分析した。その結果、「確信度」と「知名度」との間に強い正の相関(r=0.814)、イメージ可能度との間に強い正の相関(r=0.827)、そして色差との間にやや高い負の相関が見られた(r=-0.584)。さらにこれらの4指標から、主成分分析を用いて色名の認識について定量的に評価することを試み、「認識度」および「錯誤度」から93.0%の説明力を有することが明らかになった。これを踏まえると認識度においては、「基本色彩語のみの色名」はその他の色名よりも認識度が高く、「基本色彩語が二つのみの色名」は「基本色彩語が含まれない色名」よりも認識度が高い傾向を示し、従来研究と同様であった。「錯誤度」については、「基本色彩語が二つのみの色名」および「基本色彩語が含まれる色名」は、その他の色名よりも有意に低かった。これは慣用色名を知らなくても、色名中の基本色彩語を手掛かりにして色選択を行った結果、色差が小さくなったことが示唆され、従来研究と同様であった。
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イメージ、タイポグラフィ、そしてイデオロギー
─植民地時代の朝鮮(1920–30年代)における構成主義1917年のロシア革命後に生まれたロシア構成主義、いわゆる「左翼芸術」は、新しい社会を芸術として構築し組織化しようとした、芸術運動であり社会運動であった。
本研究では、社会主義的な視覚様式として、ロシア構成主義がその概念と共に韓国に伝わった歴史的・社会的流れを考察し、その影響が植民地時代の朝鮮にどのような景観を作り出したかを検討する。そのために、まずロシアにおける構成主義的なイメージとタイポグラフィの意味の研究を行った。次に、朝鮮における社会主義運動の背景と方向性の変化、そして社会主義思想の普及に印刷物が果たした役割について調査した。社会主義運動の方向性の変化に伴い、新聞や雑誌などの社会主義印刷物に配置されたタイポグラフィや画像の使用にどのような影響があったのか、具体的な事例を考察した。社会主義運動の方向性の変化と植民地朝鮮の社会的条件が重なると、ナショナリズムと国際主義が不均等に混在する独特の形に変化していくことが分かった。 -
「原爆の図」をめぐる
グラフィック文化/受容史に関する調査研究本画家の丸木位里・丸木俊夫妻が共同制作した「原爆の図」15部は、20世紀の歴史的災禍である原爆投下を伝える表現媒体として、作品の図像は、1950年代の文化運動、全国巡回展の印刷物(国内外のポスターなど)にみるグラフィック文化に多用されてきた。本研究は、実資料の発掘調査・整理と共に複写作業をし、「原爆の図」受容史の文脈に関する調査研究を行うものである。それはつまり「原爆の図」自体の絵画論、作品史を研究するものではない。「原爆の図」発表による作品存在を一つの支柱として、1950年代当時の日本社会の文化運動論の思想、文化創造が広範囲に展開されたことを分析検証することにつながる取り組みといえる。なお、調査では、丸木俊の描いた素描類(人体デッサン、国内外スケッチ)や絵本原画などにも同じく着目し、複写作業を試みている。そして、最終課題である実資料のデジタルアーカイブ化の構築は、資料保存の観点を含め、インターネットを経由して広範囲な情報公開並びに利用アクセスを目指すものである。
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共同研究による創造的アーカイブの形成
─井上隆雄写真資料のアーカイブ構築に基づいたラダック仏教壁画のグラフィック的観点からの表現技法研究本研究は、写真家・井上隆雄(1945–2016)が残したインド・ラダック地方の仏教壁画に関する写真資料を分類、調査し、その仏教壁画群の表現技法研究をグラフィック的観点より行う。同時にアーカイブ実践を通して資料研究の方法論を考察する。本研究はアーカイブ研究・日本画模写・仏教美術研究の研究者による共同研究の体制を取った。本研究では、残された写真資料群(ポジフィルム)の内容を調査し、15の寺院別に分類した。その上で、主要寺院であるアルチ寺、サスポール石窟を対象に図像のデータベースを構築した。並行して、ポジフィルムの高解像度デジタル化を進めた。そのデジタルデータを活用し、アルチ寺三層堂一階の仏教壁画「般若波羅蜜仏母」に対してあげ写しによる模写制作を行うことで、具体的な描写と筆致を確認することができた。
本研究では、井上のまなざしと仏教美術研究という二つの視点を組み合わせ、資料を寺院別さらには寺院内の空間別へと分類していく方法を採用した。このように、アーカイブズを利活用可能な資料体へとアップデートするためには、そのただ中に位置する「現在」において、資料に出会った者による「創造性」が否応なく必要になる。この点において、アーカイブという行為は極めて創造的なものと言える。創造的アーカイブの形成を考える場合、これまでの収集と保存という近代的諸制度や理念ではなく、資料を多面的に利活用し続ける組織体へと、私たち自身が資料の継承に対する価値観をアップデートしていく必要がある。