学術研究助成紀要 第5号
DNP文化振興財団では、グラフィックデザイン、グラフィックアート文化の発展と学術研究の振興を目的として、幅広い学問領域からグラフィックデザイン、グラフィックアートに関する研究助成を実施しています。
本書は2022年末までの採択研究の成果を編纂したものです。
要旨
注:著者の所属と職位は、紀要刊行時点のものです。
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幕末・明治期における写真の複製性にたいする一考察
本稿では、写真の扱われ方や保存のされ方、写真技法などの観点から、幕末・明治期の写真受容における複製性を考察した。欧米において、カロタイプで発明されたネガ・ポジ法から写真の複製は始まった。この方式は、コロディオン湿板法によって作るガラス・ネガと、質の良い印画紙の開発によって普及し、20世紀へと引き継がれた。他方で、19世紀半ばにはネガそのものをポジにするアンブロタイプも発明されたが、一点ものの写真を作るこの技法は、欧米では十年も過ぎると一般的ではなくなった。しかし日本では、紙焼き写真の移入後も数十年にわたり、物理的な複製性を有さないアンブロタイプが用いられ続けた。この、日本で起きた欧米とは異なる写真普及の歴史的事実に、本稿では焦点を当てている。具体的には、最も古い年記をもつアンブロタイプと、紙焼された写真が共に伝わる佐賀藩主鍋島直正の肖像写真を軸に、幕末・明治期に作製された現存写真の分析を進めた。考察にあたっては、日本では数少ない実践例となるカロタイプにも言及した。
その結果、アンブロタイプが愛好された背景には、一点一点の写真を、一人一人の被写体の生き写したる個別性をもつものとして捉える志向があったと考えられた。また、ネガのみが残るカロタイプについては、ネガ-ポジという複製機能よりも先に、対面する現実そのものを留めるものとしての複製性が見いだされていたと指摘できた。 -
都市空間に刻まれるグラフィック文化
─シーン街区の言語景観に関する研究本研究目的は、都市空間そのものを舞台とし、そこに表出するグラフィック文化と、都市の地域的特徴やその変容との関係性に着目することで、グラフィック文化研究における新たな研究の可能性を模索することである。都市空間にあふれる「文字」(広告、店の看板、案内掲示、ポスター等の言語景観)は通常、言語・視覚情報としてのみ認識される傾向にあるが、都市においてはそれ以上の意味を担う。主な調査対象地は東京(日本)・ベルリン(ドイツ)であり、それぞれ多言語指向が確認され、かつ言語表記のデザイン性が総じて高い傾向にある「シーン街区」に類する代官山と、観光街路カスタニエンアレー(旧東ベルリン市ミッテ・パンコウ地区)、およびウェーザー通り(旧西ベルリン市ノイケルン地区)を選定した。また、調査は現地フィールド調査(代官山)とオンライン調査(ベルリン・その他都市)双方で実施した。その結果、代官山・ベルリン双方において、商業環境の言語景観がグローバル化・多言語化する際に、カフェやレストラン、アパレル店等を一例として、それが地域性や社会・経済構造を大いに反映すること、また代官山においては、商業環境に比して変化の緩やかな住宅名称の言語景観が過去から現在に至る地域の歴史性を反映すること、ベルリンでは、観光地化が言語のグローバル化を、またジェントリフィケーションが言語のローカル化を促すこと等が明らかとなった。
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チェッコリ絵における逆遠近法の解釈とその造形的研究に基づくデザイン展開
本研究はデザイン制作の立場から、チェッコリ絵と呼ばれる文物を描いた朝鮮の伝統絵画を対象に、市井で描かれた民画チェッコリ絵における透視図法と構図を宮廷チェッコリ絵と比較分析し、両者の造形原理の差異を探求した。比較対象とした資料は1980年代以降に活動した第2世代と呼ばれる研究者が制作した図録『韓国の彩色画3』『韓国の彩色画6』『CHAEKGEORI』の3編である。民画チェッコリ絵の構図の分析では、描かれた書物の正面像を基準として、屏風ごとに描かれている書物の正面のみを抽出し、画像処理により合成画像を作成した。その結果、屏風に描かれた書物の正面がほぼ同一位置に配置されている場合が多いことが分かった。さらに、異なる屏風でも類似した構図の場合もあることが分かった。
逆遠近法は、民画チェッコリ絵に顕著に表れた技法であり、すでに複数の先行研究で逆遠近法についての解釈が試みられているが、宮廷チェッコリ絵が西洋伝来の中国経由の書斎画に描かれた線遠近法に準じて制作されていた事実についてはほとんど論じられていなかった。そこで筆者は、両者の比較から、逆遠近法が民画における風刺や諧謔精神の発露と見なせること、また民画特有の画面の物理的形式に由来している可能性、最後に朝鮮の建築空間の内部と外部に関する関係の独自性の三つの解釈を提示した。 -
戦後日本のデザインにおける勝見勝の国際的役割
─1960–70年代のICOGRADA関係者との書簡を中心に本研究は、戦後日本のデザイン界を牽引したデザイン評論家、勝見勝(かつみ まさる、1909–1983)の高い国際感覚に着目し、彼がデザインの国際交流において果たした役割を検証するものである。1983年の没後、勝見に関する関連研究や展覧会の多くは、日本国内における東京オリンピック・大阪万博のデザインの推進者、あるいは教育者としての紹介が中心となっている。この現状に基づき、本研究では(1)日本のデザインの海外発信および海外のデザイン動向の日本への紹介、(2)「絵ことば」(ピクトグラム)の推進の2点を軸に調査を行った。
勝見が編集長を務めた雑誌『グラフィックデザイン』は、彼の方針により日英バイリンガルで出版され、海外のデザイン動向や国際的なデザイン組織の報告書の翻訳を積極的に掲載した。また、同誌を海外関係者への参考資料として用いることで、日本のデザインの発信源としての役割も果たしていた。勝見勝資料アーカイヴ、イギリスのICOGRADAアーカイヴおよびV&Aアーカイヴには、海外のデザイン関係者と勝見の間で交わされた書簡や報告書が数多く含まれている。中でも、1960年代から70年代のICOGRADA関係者らとの書簡から、とりわけピクトグラムやサイン・シンボルに関して、勝見が国際的に重要な存在と位置付けられていく過程について検証した。 -
アルベ・スタイネルに関する基礎的研究
本研究で応募者は、特に1950年代から70年代にかけて特に高い評価を国際的に得ていた、イタリアのグラフィック・デザインの立役者の一人である、アルべ・スタイネルの活動を跡付けるため、いくつかのテーマについての基礎的な調査を試みた。スタイネルの創作の背景としてまず重要な要素は、彼がデビューした1930年代のミラノという場所である。そこには国際的なグラフィック・デザインの革新を受け入れる基盤として、『カンポ・グラフィコ』のような先鋭的デザイン雑誌に加え、ボッジェーリ・スタジオやミリオーネ画廊のような芸術的な拠点が存在していた。また、しばしば一般的なデザイン史で見逃されがちなもう一つの重要な背景は、スタイネルの政治性である。1922年から20年余り続いたファシズム政権は、イタリア共産党(PCI)への入党を彼に促し、第二次世界大戦中におけるパルチザン闘争への参加や大戦後の文化活動を決定付けた。応募者は、大戦直後の文化界を代表する『ポリテクニコ』紙の編集との関わりから、彼のPCI支持とその内部において持っていた異質性を指摘した。また1950年代のリナシェンテ百貨店の広告制作への参加を取り上げ、大企業クライアントに対する同世代のデザイナーとの異なる視点の存在について示した。20世紀のイタリアにおける「芸術と政治」の問題を考える上でも、スタイネルは今後さらなる重要な研究対象であると言えるだろう。
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牧野富太郎植物解剖図と江戸時代の植物画の造形特徴比較
植物分類学者である牧野富太郎による精緻な植物画は、学術的情報の伝達とグラフィックとしての造形美を両立する稀有な視覚表現事例である。本研究では、本人が収集した江戸期の本草図譜の体系調査を通して、牧野の植物画への影響要因や造形要素の共通性を考察する。主に当時高い評価を得た関根雲停と服部雪斎両名の博物画家による植物画を牧野の原図と比較観察し、筆描、木版、銅版印刷等の各表現手法と表現特性を整理し、極細い筆の揺れを持った描線による線質の取り扱いに着目し調査を進めた。結果、牧野の描法を「筆描による日本の本草図的輪郭線と、西洋の銅版画的陰影表現による折衷的描画手法」と位置付けた。博物画家の作品群については、特に筆描きの線の抑揚と一定的筆致のバランスの感覚的操作によって、作画にもたらす印象を線質で操作している可能性に言及した。また牧野の毛筆原図の目視調査では、画面構図に対し驚くべき密度で修正を施した痕跡を確認した。総じて牧野博士が包括的に心身を投じて取り組んでいたことがうかがえ、造形価値の高い植物標本図が完成した要因の一端が分かった。
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杉浦非水の戦争疎開資料に関する調査研究
杉浦非水(1876–1965)は、日本近代におけるグラフィックデザインの草創期に活躍した図案家である。非水の妻で歌人として著名な杉浦翠子の実家・岩﨑家は、代々続く川越の有力な商家だが、2018年、その岩﨑家に非水が第二次世界大戦中に疎開させた自身のグラフィック作品群(以下、疎開資料)が伝来していることが判明した。本研究では、文献調査と、疎開資料の悉皆調査を並行して行い、その全容の把握と、成立過程について考察した。
非水本人は翠子と共に昭和19(1944)年5月に軽井沢の別荘に疎開しているが、資料類や高級日用品は携行せずに川越の翠子の実家に預けたと推測される。悉皆調査の結果、疎開資料の総数は約1,200点に及び、東京国立近代美術館や愛媛県美術館に収蔵される非水旧蔵資料を核としたコレクションに次ぐまとまった資料群であることが確認された。また、愛媛県美術館の分類法を参考に目録化したところ、非水の収集物などの二次資料が皆無であること、新発見となる『非水百花譜』の原画が71枚含まれることなど、疎開資料独自の傾向が浮かび上がった。明治45(1912)年に開催された初個展の出品作品が一部確認されたことも特筆したい。
戦後、東京に戻った非水は疎開資料を徐々に引き取っており、現存の疎開資料は残部と考えるのが妥当である。東京国立近代美術館・愛媛県美術館所蔵資料の中にも、戦時中は川越に疎開させられていたものが含まれる可能性を考慮する必要があるだろう。 -
カタカナ活字デザインの社会思想史
─1914 –39年のカナモジカイの言説を手掛かりに20世紀初頭の世界各地では、旧来社会で用いられていた文字を廃止し、新しい文字を用いることで経済・社会の合理化を図ろうという文字改革運動が盛んに行われた。本論文では、当時の日本において漢字を廃止し日本語をすべてカタカナで書くことを主張したカナモジカイの事例を通じ、活字デザインの社会思想史的背景の変遷について分析する。大正期から昭和初期の同会のカタカナ活字のデザインには、時代ごとの社会思想的な背景が影響していた。まず、カナモジカイの活動初期である1910年代から20年代には、進化論的な思想と関連する形で、欧文活字デザインの慣習・理論の影響を強く受けたカタカナ活字が制作された。続いて1930年代初頭には、当時の美術界の動向を受け、機械の持つ機能美(「新形態美」)に着想を得た活字デザインを理想とする意見が現れた。その後、1930年代末には、日本のアジアへの軍事進出の拡大などを背景に、「東洋精神」を象徴する書道の伝統を踏まえた活字デザインを追求する動きが生じた。このような例は、活字デザインを美術史の一分野としてだけではなく、より広い歴史的文脈において社会思想を分析するための道具として捉え得る可能性を示している。
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戦後フランスの複製技術による芸術の共有化に関する研究
─フォートリエの「複数原画」を手掛かりに1950年代のフランスでは、芸術の複製への関心が高まりを見せていた。フランス人芸術家ジャン・フォートリエは独自の印刷技術を開発し、一作品につき数百点を制作することが可能な「複数原画」に取り組んだ。また、1947年に『想像の美術館』を出版したアンドレ・マルローは、そこで世界中の芸術作品を写真図版によって比較する新しい鑑賞法を提唱した。さらにユネスコはカラー複製をリスト化し、カタログ出版や複製画展の世界巡回を実現させた。
本研究はこのような芸術の普及・普遍化の試みを芸術のグローバル化の文脈において理解するだけでなく、そこに今まで見過ごされてきたフランスのモダニズム美術の特徴を浮び上がらせることを目的とする。フォートリエ、マルロー、ユネスコの三者は密接に結びついていたが、先行研究はマルローとユネスコの試みにフランスの文化の復興を目指したイデオロギー的戦略を読み取り、それを批判的に解釈してきた。
しかし、本研究はユネスコのカラー複製プロジェクトにフランス美術がその他多数の芸術ジャンルの一つになっていく過程を読み取る。さらにマルローとフォートリエの芸術の複製についての考えに共通項を見いだし、フランスのモダニズム芸術の特徴として提示する。このことにより、戦後フランスにおいて、芸術の複製はモダニズムとポストモダニズムの芸術が交差する重要な場になっていたことが明らかになるだろう。 -
グラフィックの身体性: BIPOCデザインの越境性について
本研究の目的は米国社会のメインストリームから外れがちであるBIPOC(バイポック:黒人、先住民、有色人種)文化に焦点を当て、現状のグラフィック史から欠落しているBIPOCのグラフィック史を補完することにある。特に、祖国から離脱したディアスポラの人々は、その失われた文化への郷愁を超え、失われたがゆえにその身体の中で純化した個々の文化の固有性と、異文化の価値観の中で身一つで生き抜き、過酷な状況下で絶えず何度も生まれ変わり(リーバース:rebirth)世に新たな表現を輩出するサバイバル精神とアイデンティティを生成してきた。研究で重視した「身体性」という点は、作家それぞれの「身体から創出されるフォルム」の解明と、どの芸術の派閥にも属さないカウンターカルチャー的な運動体としての「ムーブメント性の定位」を指し示している。研究の手掛かりとしてBIPOCのグラフィックアート・出版・配給・広報などの社会への供出方法、そこに育まれた人権運動や音楽のムーブメント的概念などを、著名な関係者への取材を通し、多角的に解体していくことを試みた、しかし、BIPOCのIにあたる先住民への調査に関しては事前調査にとどまり現地調査まで至ることができず、次への課題を残した。先住民の研究資料に関しては、カリフォルニア州とルイジアナ州の大学教授、BIPOCデザイン講師、博物館の学芸員などの紹介により貴重な発掘作業を成すことができた。
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港屋絵草紙店の夢二版画にみる筆の掠れ「サビ」について
─木版技法の視点から本研究では、伝統木版の彫刻技術「サビ彫り」について調査することによって、港屋絵草紙店の夢二版画に見られる掠れの表現「サビ」について考察する。1914年に創業した港屋絵草紙店は、画家でありデザイナーの竹久夢二(1884–1934)がデザインした原画を基に木版技法で作られた生活雑貨(千代紙、絵封筒など)や版画作品を販売していた。本論で調査する版画作品には、木版でありながら斑点状の筆の掠れを残した表現が見られる。この表現は、当時の伝統木版職人による彫刻技術サビ彫りと考えられる。「サビ」とは、明治期に登場し、筆の掠れによってできた斑点の形を木版の凸部分として彫り残すものであり、現代においてほとんど失われていた技法となっている。そこで本研究では、伝統木版職人・朝香元晴(1951–)にインタビューを行い、「サビ」の彫刻方法や表現的特徴について明らかにする。続いて、それを基に、夢二版画の港屋と同じ版木を使用した柳屋のものと比較検討する。柳屋は1916年の港屋閉業後に夢二版画を取り扱い、後摺りや新作を販売する。この2店舗から作られた夢二作品には、両者の比較からは、関東と関西での摺りの違いが確認できた。最後に港屋版《一座の女形》の図像的特徴を朝香が担当した復刻版と比較検討し、夢二の描画表現が木版彫刻によってどのように再現されてきたのかを指摘する。以上の分析によって、西洋的な絵画表現に憧れを持つ夢二と伝統木版の新たな組み合わせによって作られた「サビ」の特徴を指摘した。
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1980年代におけるイラストレーターの社会的立ち位置とイラストレーション言説をめぐる研究
─「日本グラフィック展」の周辺を中心に本研究は1980年代のイラストレーションについて、同時代の社会背景、言説に注目して研究を行ったものである。
そのためにまずは文化的な経営戦略をとっていた商業施設、PARCOについて言及を行った。PARCOは商品自体を売る百貨店とは異なる「空間」の魅力を発信し、「ムードを売る」ことに専心していた。特に1980年から1991年までパルコが主催した公募展、日本グラフィック展の周辺ついて考察を加え、それが当時の社会とイラストレーションをつなぐ重要な役割を持っていたことを明らかにしている。そうした作業を通じて、本研究は日本の現代美術史の再考を促すような視点を提示し、美術以外のジャンルとの比較によって従来の主張の相対化を行った。
そのような前提の上で、日比野克彦と横尾忠則の二人を通じ、当時の社会状況の下で彼らがどのような意識で振る舞っていたのかについて分析を行い、かつその他のイラストレーターが80年代のイラストレーションの表現主義的な傾向をどう捉えていたのかを検証した。これらの論述によって、当時のイラストレーションが文化と資本のダイナミックな関係下にあったことが理解できるだろう。 -
日本近代石版画史研究発展のための亀井至一・竹二郎研究
亀井兄弟は、写真家であり画家だった横山松三郎に洋画を学び、版画工房・玄々堂で活躍した。横山の開いた画塾であり写真館だった通天楼の記録である「通天楼日記」の刊行と研究により、二人が洋画だけでなく写真の撮影や現像にも関わっていたことや、至一が石版画制作技術を学んだことが明らかになった。また横山や玄々堂、そして亀井兄弟と関係のあった蜷川式胤の日記の刊行が進んだことで、特に竹二郎の油彩制作への蜷川の支援も明らかになり、こうした周辺の記録から、兄弟の年譜に多くの事績を反映できた。
日本近代美術黎明期においては、写真、油絵、石版画などの境界が明瞭でなく、いずれも新しい技術、技法への強い関心と情熱をもって習得した多くの制作者がいた。
今回の研究成果発表として企画した「記録する眼 豊穣の時代 明治の画家 亀井至一、竹二郎兄弟をめぐる人々」展の成果に基づきながら、記録する眼で写真を撮り、油彩画を描き、石版画を制作した彼らの作品の魅力を提示し、その中における亀井兄弟の位置を明らかにすることを試みる。 -
近世初期にキリスト教宣教者がもたらした銅版画の役割
─茨木市立文化財資料館蔵〈七秘跡と七美徳がある主の祈りの七請願〉の場合大阪府茨木市の市立文化財資料館に保管されている銅版画シリーズ〈七秘跡と七美徳がある主の祈りの七請願〉は、1920年と1922年に大阪府茨木市千提寺および下音羽地区の民家から発見された。2枚の欠落があるが、シュトラスブルク出身の銅版画家マテウス・グロイターによって1598年にリヨンで制作された8枚からなる版に基づくものだと知られている。寓意のマニエリスム的視覚化の方法を参考にしながら、関連場面が散りばめられた背景から大きく突出した擬人像が画面を支配する。その姿や両側に配置された銘文を通して、カトリック改革派的な考えも盛り込まれている。聖職者のための典礼指南として機能した可能性があり、茨木本はおそらく1611年頃にアジア宣教向けに変更されたものであろう。特に「婚姻」の秘跡の紙面に、ヨーロッパに残る版にはみられない特徴がある。制作に関わった宗派は知られていないが、日本にもたらしたのはイエズス会である可能性が高い。江戸幕府による禁教令が厳しくなる中で、まだ多くの宣教師が活動していた大阪城周辺で受容されたと考えられ、観念の文法上の性に基づくとはいえ、女性が司式に携わるような図柄は、実際に関わった高位の女性に好意的に受け入れられたと思われる。1615年の大坂城落城に際して、他の聖具と共に亀山街道を経て千提寺、下音羽地区にもたらされ、約300年間秘蔵されたものと推察される。
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患者・市民向けがん情報提供における効果的なメディカルイラストレーションの作成・活用に向けたアンケート調査
─今後の発展に向けたさらなる探究点の模索本研究は適切ながん情報の提供を目指し、メディカルイラストレーション(以下、MI)の作成および活用について調査を行い理解力促進・記憶持続に効果のあるMIの描写方法の検討を行った。近年医学の飛躍的な進歩によりがんをはじめとする医療情報は複雑化している。そのような背景から医療情報が曲解される事案も増加、確かな情報を齟齬なく伝えることが求められている。そこで正確な情報伝達のツールとしてMIの使用に注目が集まっている。情報を構造化し視覚的に提示する手法は欧米をはじめとして広く使用されているが、情報伝達に寄与する表現がどのようなものかという技術的な問題点(写実的・模式的に描くべきか等)については、いまだ十分な検討がなされていない。より情報の理解、知識持続に効果が見込めるMIを作成することは、健康を促進する能力ヘルスリテラシー(正確な医療情報を選択・理解し行動に移す力)向上に寄与する可能性があり必要不可欠な事項であると考える。上記から、本研究は日本人の2人に1人が罹患する「がん」の情報に焦点を当て、国立がん研究センターが提供している患者向けがん情報を対象に、理解力・知識持続に寄与するMIの描写方法における技術的な問題点を解決することを目的とした。
調査を受けた結果は既に国際学術雑誌へアクセプトされているため、本紀要では論文にて言及することが叶わなかった議論点をさらに検討していく。 -
ペーパーギャラリー『Jam & Butter』
─モリスフォーム、アーティストマガジン、西海岸と関西アートの交差と交流の場(サイト)へ本稿は、1970年代初頭、アーティスト森喜久雄(1944 –2015)と彼が大阪とロサンゼルスで運営したスペース、モリスフォームが出版したアーティストマガジンについて考察する。4種の定期印刷物の中から、アートに特化した月刊紙『Jam & Butter: Paper Gallery』(1971–73年、75年)について、そもそもなぜ印刷物か、「紙上画廊」としての役割、日米とりわけ米国西海岸と関西のアートおよび作家の交差と交流について検証する。第1章および第2章では、導入として森喜久雄とモリスフォームを取り上げる。第3章では、スモールプレスとしてのモリスフォーム、『Jam& Butter』をはじめとする出版物の紹介と、なぜ印刷物かという問いに答える。第4章では、『Jam & Butter』の主要な記事を取り上げ、この刊行物の体裁と意義をさらにみてゆく。第5章では、『Jam & Butter』の歴史化を試みる。特に米国Moriʼs Formの拠点であり、実験的な版画やアーティストブックの制作が盛んであったロサンゼルスの状況を鑑みつつ、ベトナム戦争を背景に台頭したアジア系アメリカ人アクティビストによるミニコミ誌、さらに森が直接関係を持った具体美術協会の機関誌などとの関連や影響にも触れる。最終章では、アーティストマガジン自体を作品や実験と捉え、『Jam & Butter』が紙上画廊としての機能もさることながら、一つのオルタナティブスペースであり、アート界の周辺にあって現実の場所を離れた言説空間としてのサイトスペシフィック・アートを形成したのではないかと提唱する。
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近代日本における〈学校用民間教育掛図〉の図像学的研究
─博物・理科・歴史掛図を中心として教育掛図とは、教室の黒板や壁に掲げられた大判の絵図を指す。教育掛図は当初、文部省や東京師範学校によって製作されたが、文部省は明治20(1887)–37(1904)年まで掛図を編纂発行せず民間に委ねたため、印刷会社や出版社が各教科に対応した〈学校用民間教育掛図〉を発行した。本稿では、〈学校用民間教育掛図〉のうち博物・理科・歴史掛図を対象として分析を行い、特質を明らかにした。その結果、文部省が明治初期に発行した掛図《博物図》は羅列的な標本画であったが、東京造画館が発行した《博物集覧正図》は学名を記載し、特徴的な生態に即して描写され、科学的な視点が示唆された。歴史掛図製作において原図の入手が困難であったため、普及舎では歴史画家・有職故実家である小堀鞆音を起用し、原図とは異なる筆致がみられた。東京帝国大学文科大学史料編纂掛は高度な印刷技術を駆使した《歴史科教授用参考掛図》を発行したが、原図に基づいた図像であり、歴史に関する図像イメージを統一する意図があったと考える。〈学校用民間教育掛図〉には粗雑な印刷があったことは否めないが、文部省発行掛図を補う役割を担っていたと結論付けた。
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民間所在アーカイブズにおける写真の公開・活用時の被写体への配慮に関する諸課題
─比嘉康雄が写した地域写真を中心にアーカイブズに含まれる写真は、通常は著作権法や個人情報保護法等の法律に則って資料を所蔵する機関の公開基準や寄贈者等との定めに基づき、公開・利活用に供される。だが、個人や民間団体が保有するアーカイブズの場合、肖像権やプライバシー権への特別な配慮がなされないまま提供されることも少なくない。こうした写真の中には、被写体や撮影内容によっては公開に踏み切れないものも一定量含まれている。
本論は、アーカイブズにおける写真の公開・活用を見据えた資源化のための方法論と被写体への配慮の在り方を検討するものである。具体的には、沖縄の祭祀世界を記録したことで知られる写真家・比嘉康雄が、1970年から80年代にかけて撮影した国内外の伝統行事や祭祀をはじめとする地域写真を対象に、撮影された内容や背景情報を踏まえた資源化と公開判断の検討を試みた。公開判断では、複数名でデジタルアーカイブ学会が2021年に公開した「肖像権ガイドライン」を用いて、沖縄で執り行われる祭祀以外の写真も対象に加えて検討を行った。その結果、地域やコミュニティ固有の慣習や観念、被写体の立場性など肖像権のみでは抜け落ちてしまう配慮すべき事項を明確化させた。こうした課題を認識した上で公開のあり方について議論を深め、写真公開の可能性を拓くことが本研究の目指すところである。 -
坂口恭平の日々のアーカイブ
─パステル画オンライン・カタログ・レゾネを通して本研究では、坂口恭平(1978 –)が2020年5月より日々描いているパステル画、約860点を調査し、今後の研究の基礎資料となるアーカイブを構築した。
坂口の幅広い活動に関しては、本人による膨大なアーカイブがあるが、本研究ではパステル画を起点に、そこから創造の日々全体を垣間見ることを目指した。アーカイブの項目は基本的なものを採用し、個人の実践がさらに客観的な研究対象となる環境を整えることを試みた。同時に、坂口のパステル画を対象としたときに生じる基本的な項目の意味の分析も行った。2020年5月から2022年11月末までの作品について、「風景」「静物」「人物」「猫」「家族」「セルフポートレート」「抽象」といった、モチーフや傾向などを洗い出した。アーカイブの構築および公開に際しては、一個人から研究者までが活用できることを目指した。多くの作品が個人所蔵者の元に離散して全貌を追うことが難しい作品群を、アーカイブの構築によって一つのステージにあげた。 -
金属活字における 平仮名・片仮名字形一覧の作成と研究
書体設計士で活字史研究家である小宮山博史氏(以下、小宮山)は、自ら収集した資料を用い、日本語文字の基本書体である明朝体活字がヨーロッパで成立した過程と日本への伝播の経緯を明らかにした。小宮山が収集した資料は、2019年6月、横浜市歴史博物館(以下、博物館)に寄贈され、2022年4月、横浜市歴史博物館所蔵小宮山博史文庫(以下、小宮山文庫)目録が博物館ホームページで公開された。文庫は全点数2,649点を数え、その内容は多岐にわたるが、中でも特質すべき資料群が日本語・中国語・欧米諸語の活字見本帳312点である。文庫の活用について検討する中で、同コレクション最大の特徴である、活字見本帳を基にした「平仮名・片仮名の字形一覧」(以下、仮名字形一覧)を作成することとした。
かつて小宮山は、1999年に『明朝体活字字形一覧 1820年~1946年』(全2巻、文化庁文化部国語課編、以下、『明朝体活字字形一覧』)を手掛けたが、これは漢字の字形一覧であった。一方今回作成する字形一覧は、文庫所収の活字見本帳のうち選別した94冊の活字見本帳に掲載された仮名(平仮名・片仮名)を取り上げ、その字形を一覧にするもので、冊子ではなく、検索が可能なデジタルのデータベースである。成果は博物館ホームページで2023年1月に公開された。